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蒋介石

蒋介石とは、(1887年-1975年)中華民国の軍人、政治家である。

概要

本名は中正であり、介石は字である。介石という字は1912年の日本で創刊された雑誌軍聲のペンネームが元である。軍聲自体蒋介石が作った雑誌でもある。

台湾に中正の名が付いた地名や機構名のほとんどは、彼の名前から由来する。

例(国立中正大学、台北市 中正区.etc…)

蒋介石の名前・呼称

蒋介石には多数の名前が存在し、本名の中正、字の介石の他に、譜名(族譜に書かれる名前)の周泰、幼名の瑞元、学名(入学する時に付けられる名前 別称は訓名)は志清……と多種多様である。

他にも、偽名として1908年日本で革命党を活動する際に中村と名乗り、陶成章を暗殺して日本に潜伏する際に石岡と名乗り、1914年に満洲で奉系軍閥の協力を行う為に石田介雄(いしだすけお)や石田雄介と名乗るなど、様々な偽名を使った。

蒋介石は黄埔軍官学校の校長を務めていたことがあり、黄埔の卒業生が蒋介石の事を校長と呼んだことが有った。

政府の文献だと、蔣中正、中正、尊称だと蔣公で書かれており、蒋介石が亡くなった後に先總統 蔣公と尊称で呼ばれた。

民間だと老蔣、老總統、老蔣總統と呼ばれている。

日本中国大陸では蒋介石と呼ばれている。

アメリカや海外だとChiang Kai-shekと呼ばれているが、これは「蒋介石」を広東語読みしたものである。

海外における蒋介石のあだ名はGimoで、これは彼の軍人としての階級である特級上将=大元帥を意味するGeneralissimoの略したものである。

主な経歴

蒋介石は1887年の浙江省奉化市渓口鎮の玉泰塩舖で生まれた。

1901年に毛福梅と結婚する。毛福梅曰く、結婚披露宴で料理が出る時に、蒋介石は外で子ども達が遊んでいるのを見ると、突然走りだして子ども達と遊び始めた。それを見た毛福梅の両親や参加客は大慌てになり、その後毛福梅の村の長老に捕まってビンタされて式場に連れ戻された。

1903年には鳳麓学堂で西洋式の勉学を励んだが、1904年には退学処分された。

1905年には箭金学堂に入学し、諸氏等の中国の思想家を学んだ。その際顧清廉に孫子の兵法を教わり、蒋介石が陸軍を志願するきっかけとなる。

蒋介石の来日

1906年には軍事を勉強する為に初めて来日し、東京の清華学校で日本語を学ぶが、当時は清政府の推薦がないと日本の軍学校に入学出来ない為、半年で帰国。その際に陳其美と出会い、孫文の思想に関心をもつ。

その後清の保定陸軍軍官学校に入学し、日本留学組に選ばれ1908年に東京振武学校へ留学、1910年に卒業した。成績は62人中52位と下から数えたほうが早かった。

士官学校に入学するには、一年の入隊経験が必要であったため1910年には日本陸軍十三師団の第十三師団野戦砲兵第十九連隊の士官候補生として配属された。

しかし、1911年10月に辛亥革命が勃発し、蒋介石は軍を抜けることを決意し、無断離隊を行った。その際、辛亥革命がきっかけで無断離隊したのは62名中3名(蒋介石を含む)と非常に少なかった。

孫文との出会い

蒋介石との孫文の出会いの時期については、文献によって記述がバラバラで一定していない。

蒋介石年表だと1909年、蒋介石日記だと1906年に陳其美の仲介の元宮崎滔天の自宅で孫文を目撃したとの記述がある。そして二人の初接見は1910年説、1913年12月説、1914年6月21日説がある。

1914年は29回孫文と会談したが、その内8月が24回と多い。会談の内容は、浙江省で本拠地を建てる計画で、孫文はその計画に賛成し、蒋介石に2万ドルもの大金を渡している。だがその計画は袁世凱政権に漏洩し、失敗し蒋介石は暫く孫文に面会することができなくなった。

その後、陳其美の説得で7ヶ月後の1915年3月に面会することになる。 1914年よりかは少ないが、 4月は2回、5月は3回、6月は1回、7月は2回、8月は3回、9月は3回、10月は2回、そして11月は5回と会談回数の多さから、孫文の信頼を回復できたことが伺える。

1922年6月16日には陳炯明の叛乱が勃発し、孫文が窮地に立たされた。陳炯明は孫文や蒋介石の同志であったが方針を違えるようになっていたのである。その2日後の18日には上海にいた蒋介石の元にも電報が届き、蒋介石は孫文を救援するために20日に上海を出発し、29日に黄埔沖の永豊艦(後の中山艦)に到着した。その後1ヶ月半も船の上で共に過ごすことになる。この事がきっかけで、孫文が蒋介石に対して抱いていた厚い信用はさらに盤石な物となった。

ただし孫文の信頼は国民革命の継承者の意味ではなく、軍事分野での参謀的な立ち位置であったと考えられる。

陳潔如との出会い

1919年の夏、蒋介石は家から帰ろうとしていた少女「陳潔如」と出会う。蒋介石は家まで送ろうかと言ったが、陳潔如は断ってデタラメな住所を言って帰った。ちなみに陳潔如は1906年生まれ。現代日本でいう中学一年生くらいの少女が30過ぎのおっさんに声をかけられたわけで、正しい反応であろう。

だが一週間後には、蒋介石は幼名(阿鳳)と叫びながら、勝手に家に上がり込んで来て、お前が好きだと告白した。うわあ……。

その時に母親が帰宅し、蒋介石に対し、「家に勝手に上がって、親の承諾もなく13の歳の娘を追っかける人に娘との友達になる事を認めません」と言い、蒋介石はそそくさと帰った。

しかし陳潔如の父の葬式に参列したり、また陳一家の知人であり孫文の協力者でもあった豪商「張静江」の説得により母親は考え直し、1921年には蒋介石と陳潔如の結婚式が執り行われた。

なお、その頃蒋介石は最初のの毛福梅に離縁を言い渡している。

孫文の死没、新主導者へ

1925年3月12日、中華民国政府および国民党の指導者であった孫文が死去した。

その後蒋介石を含めた党内の有力者らが主導権争いを始める。他の有力者たちが失脚していく中で、軍の重鎮であった蒋介石は軍事的功績を上げ続け、党内の最有力者になりつつあった。

しかし、孫文の生前から中華民国政府および国民党は容共方針(第一次国共合作)にあり、国民党軍はソ連からの軍事協力を得たり、中華民国政府や国民党内に共産党員が参加している状況となっていたのだが、蒋介石は共産党への警戒心を持っていたため、共産党や国民党内の容共的勢力といった左派の軋轢が生じた。

そして1927年には蒋介石の同意ないままに、左派によって中華民国政府が武漢に移される(武漢国民政府)など、徐々に蒋介石に代表される右派と左派との対立は目に見えるものとなっていった。

反共主義者へ

蒋介石は1919年の元旦の日記では「ロシア革命を攻撃する人がいるが私はソ連共産党を擁護する。」という内容を記しており、その時点では容共的な考えだった。

1923年の8月13日に蒋介石はソ連に訪問する。その時の日記の評価では、マルクス主義に対する批判はなく、農民優遇する政策に一定の評価を示していた。

蒋介石が反共主義へと導いた要因

外蒙古(モンゴル)の領有権問題

  • 蒋介石はモンゴルを中国領としてみており、モンゴル独立問題に関してトロツキーと議論するが、蒋の望む答えが出ずに憤激した。その後、国益と革命とは別に考えないといけないと心得た。
  • 蒋がロシアを侵略者と主張する理由の一つとしてモンゴルの独立をロシアが手助けし、その後ソ連の衛星国にした事を挙げている。

社会主義経済の不調

  • 訪ソにより、小規模経営の国営化の非効率性や経営管理の出来る人が居ない為産業の効率化が行えていない等の社会主義経済の問題点がわかり、その後マルクス経済学の勉強をするが、理論の実現に困難で有ることを知る。

ロシア人外交官の無礼で怠慢な態度

  • あまりにも酷さに帰国を検討したこともあったと日記に書かれており、蒋介石のロシア人嫌いのきっかけになる。

ロシアにおける孫文の評価の低さ

  • 特に蒋介石を反ソに導いた主な要因である。
  • 理由は、1923年の10月10日にモスクワのコミンテルン執行委員に向けた講演で三民主義と孫文を賞賛する物を行った所、中国人留学生からは「英雄崇拝者」と批判され、ロシア人からは、「このように偏狭な見解しか持たないのに、いかにして世界革命の中心になろうとしているのか」と大声で野次られ強い衝撃を受けた。蒋介石は熱狂な孫文支持者であったことからソ連や共産党に対して強い不信感を抱かせることになった。その後帰国直前でも公演が行われ、内容も前回の批判を考慮したものにした。前回ほどの批判は無かったものの共産党の不信感を払拭することはなかった。

帰国後には共産党の不信からマルクス主義に対しても嫌悪を抱くようになり、最終的には「ソ連の眼中には中国国民党はなく、平等で対等な民族とは見なしていない。」「ソ連は今や紅色の帝国主義者」という言葉を残すようになった。

寧漢分裂

そんな中、蒋介石は1927年の4月12日に上海クーデターを引き起こし、共産党勢力の粛清を図り、第一次国共合作を破棄した。18日には南京に国民政府を設立し、武漢国民政府から独立して二つの国民政府が成立した。

だが武漢国民政府もその後反共政策に転換し、蒋介石の下野を条件に南京国民政府への合流を提案。蒋介石はその案を飲み8月14日に下野した。19日には武漢国民政府は南京に遷都し9月初めに汪兆銘が南京に到着した事により、寧漢分裂は終焉した。

宋美齢との結婚

1927年の10月に神戸で宋美齢との母親との結婚の承諾を得る。12月1日上海にて宋美齢との結婚を行う。

陳潔如との結婚は無かった事になった。彼の日記で塗りつぶされた箇所が存在するが陳潔如関連が殆どで、蒋介石の側近だった陳布雷が著した『蒋介石先生年表』にも、毛福梅と結婚した記録は存在するが陳潔如との結婚の記録が無い。蒋介石にとっては黒歴史だったと考えられる。

西安事件

西安事件とは1936年12月12日に、蒋介石の「安内攘外」(まず中国共産党勢力を撃滅して国内を安んじ、それから外国(日本)からの脅威をする)政策?に不満を持った張学良・楊虎城らが西安で蒋介石を誘拐した事件である。

張学良の部隊が蒋介石を捕まえた際、蒋介石が食事をなかなか食べないのを見て、何故食べないのかの理由を兵士が尋ねると、「入れ歯がない為食べることが出来ないと答えた」。

その話を聞いた張学良は蒋介石の入れ歯を探すよう命令し、入れ歯が見つかるまで粥や牛乳のような流動食を提供した。

台湾

1949年1月21日に蒋介石は敗戦の責任を取って総統の座を辞任した。その後、故郷の奉化市渓口鎮に生涯最後の訪問をしている。4月23日には故郷を離れ、太康艦で上海に向かった。5月には上海を離れ舟山諸島に訪れ、馬公から飛行機で台北に向かった。

7月10日にはフィリピンに訪問し、当時の大統領と東アジアに反共組織の設立に関する会談を行った。8月にも韓国鎮海に訪問し、李承晩と反共に関する話を交わした。蒋介石はそれ以降海外に訪問していない。

12月10日には、中美号で成都を離れ台北に向かった。それ以降蒋介石は中国大陸に足を踏み入れることはなかった。

交通事故

1969年の9月に蒋介石の乗っていた車が事故で衝突し、蒋介石は大きな怪我を負う。その影響で排泄能力を失い、医者が浣腸によって排泄させていた。

1971年の12月には医者が居ない時に侍従の錢如標に浣腸を行わせたら、錢如標は浣腸に力を入れすぎて、蒋介石の肛門に傷を付けてしまった。その後蒋介石は高熱で寝込み、ベットの上で「彼を捕まえて、軍法会議にせよ」と叫んだ。侍衛長の反対により軍法会議は免れたが、錢如標は士林官邸に軟禁され、それは蒋介石の死後まで続いた。

1972年には昏睡状態に陥り、半年間は目を覚まさなかった。それにより、日記を書くことができなくなるほど衰弱した。この頃から、息子の蒋経国が蒋介石の代わりに政治を行うようになる。

死去

1975年4月5日の夜に心臓発作で倒れ、電気マッサージ等の救命措置を行ったが、23時50分に蒋介石は亡くなった。4月16日には国父紀念館で盛大な葬儀が行われ、各国の政治家が葬儀に参列した。

遺体は、慈湖の先總統蔣公陵寢に置かれている。

評価

蒋介石は非常に毀誉褒貶が激しい人物な事で知られており、評価する側の政治的な立場によって評価が真逆になる程に変わりやすい人物でもある。

大陸では人民公敵蒋介石と名指しで批判されていたが、近年では蒋介石の再評価が行われている状況である。

台湾においては、国民党や外省人からすれば、北伐を成功させた偉大な人物で有るが、本省人達にとっては白色恐怖等の圧政を敷いた独裁者として否定的な評価が多い。

日本では、中国戦線から復員した兵士達や、岸信介や佐藤栄作などの保守層は蒋介石に対しては好意的な印象をもっていたとされ、後者に至っては蒋介石の葬儀の際に参列したほどでもある。

関連項目


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Last-modified: 2018-05-11 (金) 20:07:45 (1728d)