批判 †批判(ひはん)とは要するに文句の事で、あげ足取りなどでよく使われる技。 概要 †ずさんな経営をしている企業、職務怠慢をしている政治家に使われる技である。使用するのは主にマスコミやコメンテーターなどで、敵対する政治家に使用する政治家もいる。ただしこの技は諸刃の剣で、的外れな事を言ってしまうと自分に帰ってくるので注意して使用しなければならない。 「お金に魂を売ってるのは自分じゃないですか!! すみません僕が間違ってました!! 本当にスマセン!! 僕がスキャンダル集めに魂を売ってました!!」 ただしマスコミがこの技を使用しなければ、この世がわるいおとなのひとたちで溢れかえってしまうので、この技は世間にとって必要不可欠である。それが例え創価学会には靴を舐めさせてください状態で、力の無いNEETやそんなに地位が高くないサブカルチャーの関係者は批判し放題でもだ。 例えバラバラ殺人事件が起きてデスノートが悪いと的外れな批判を言いながら、自分達は不健全な不倫をしまくる内容の昼ドラや二時間推理ドラマを放送していても、例えアダルトゲームを批判しておきながらAVに関しては何も言わなくとも、恵まれない子供達の事を報道しておきながら自分達はほとんど寄付をしなくとも仕方の無いことなのだ。 「お前何捏造とかしちゃってんの? マジでウケるんだけど・・・あ、スンマセン、もうゴルファーに隠しカメラとか仕掛けないんで許してください。スマセン!!」 コメンテーター †コメンテーターにも色々な人がいる。例えば・・・こんな人も辛口コメンテーターになれる!
さあ、皆も文句を言うだけで金を稼げるコメンテーターになろう!!フハハハハハハ!! 結論 †まあ、人を強く批判する奴に限って自分がいざ「お前はどうなんだ?」って言われたら言葉も出ないヘタレが大半を占めています。政治家の事を批判しているマスコミや大物芸能人も、政治的には無能なんだから笑えちゃいますよね。 ほら、人を呪わば穴二つって言うし・・・・・・あんまり感情的になって悪口を言うのもねえ・・・いや、横領する政治家は去勢してもいいんだけど。 結論に対する批判 †上記の結論には2点の問題がある。 1つは、マスコミや大物芸能人に無条件で政治的に無能であるというレッテルを貼り付けていることであり、もう1つは「横領する政治家は去勢せよ」という暴言を吐いていることである。 前者については横山ノックや青島幸男、大橋巨泉という芸能人出身の政治家を愚弄するものであり、執筆者の品格が知れるというものである。 後者は劣等人種の根絶を謳ったナチスの思想に通ずるものがあり、その先に待つ悲劇を考慮するに見逃すわけにはいかない論説である。 いつからEgachan Galleryは、このような論説がまかり通る場所になってしまったのか。執筆者諸氏の自省を強く求める。 結論に対する批判に対する批判 †上記の批判には、明らかな問題点がある。 第一に、幾人かの政治家の名前を挙げ、それが全てであるかのように誤解させる内容であるからである。全体的にある傾向が明確であるなら、それを前提とした批判は必ずしもレッテル貼りとは言えず、特殊ケースについては個々に論ずればよい。 また、安易にナチス批判をすることも問題である。確かにナチスは結果として悪と考えられているが、そもそも善悪は時代と場所によって異なるものであり、安易に坊主憎けりゃ袈裟まで憎い理論を展開することはむしろ、自分自身がレッテル貼りをしていることになる。 さらには、「執筆者諸氏の自省を強く求める」などという他人の言論を封殺するような言い回しには恐怖すら感じる。この執筆者は何を考えているのであろうか。 一方的な決めつけを批判と勘違いするような者が批判論を展開するようなことは、断固として防いでいかなければならない。 結論に対する批判に対する批判に対する批判 †上記の批判には意図的な誤謬があり、読者をいたずらに困惑せしめるものである。個々に指摘してみよう。 「幾人かの政治家の名前を挙げ、それが全てであるかのように誤解させる内容である」としているが、そもそも政治家の日常は一般人とはかけ離れたものであり、当然、交友関係や金銭感覚、それに伴い思想・思惟も自ずと特殊なものになる。つまり、政治家そのものが既に特殊ケースなのである。そうした土壌にて安穏と太平楽を決め込んでいる政治家は、例外なく心根が腐敗していると断じても差し支えない。 安易なナチス批判を戒める姿勢は一見理性的であるようだが、どうやらこの執筆者、自然犯罪の概念をご存知ないと見える。時、場所、文化の違いに関わらず悪とされる犯罪もあるのだ。 子どもの喧嘩レベルの台詞しか吐けないで「言論封殺」とは片腹痛い。狭量な見識しか持ち合わせずに批判精神を振りかざすような論客には、猛省をしていただきたい。 結論に対する批判に対する批判に対する批判に対する批判 †上記までは、そもそも前提から間違っている。百科辞典としての、万人に向けた記事である以上、個人の意見を載せるべきではない。~なのだ!といった個人の結論や、~すら感じるといった感想は、辞書にとっては蛇足である。そもそも、辞書的な意味とは置き換えが可能であることである。例えば、本項の批判を全て本文に置き換えて、果たして意味が通じるだろうか。 結論に対する (中略) 批判に対するコメント †「ナニコレ!?ヤダコレ!?面白いからいいけど。」 「なんだかウィキペディアみたいですね。」 真の結論 †心理の探求者「このように、一度批判合戦をはじめたら、今の日本人の器ではほぼ確実にウロボロスの輪になります。他人がひややかな目で見ても無駄で、結局はこの人達のようにイベントが始まります。あなたもこの輪に入りたくなければ、一生、批判合戦に参加しないことですな。もっとも、議論が無くなれば私達観察者は困りますがね。」 関連項目 † |